僕とBPD~パーソナリティー障害と共に生きる~発症編

僕とBPD 発症編 パーソナリティ障害と共に生きる 病気と僕

人生とは、苦痛の連続だ。どうも、青海ゆうきです。

 

16歳から通っていた病院で主治医からBPD(境界性パーソナリティ障害)だと告げられたのが20歳の時。

しかし自分ではもっと前からそうなのではないかと感じていた。

ネットを使えば何でも調べられる時代。

自分の症状とぴったり合致する病気の名前が画面の中にはあった。

 

病院から処方された薬は抗精神病薬(いわゆる精神安定剤)と不眠の症状のための睡眠薬。

しかし16歳から19歳までの僕の診断名は気分障害(鬱病)。

鬱病なら、抗鬱剤が処方されるはずでは?と疑問も抱いていた。

 

そんな疑問から始まった僕とBPD(境界性パーソナリティ障害)について少しお話をしようと思う。

 

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BPDとは

 

BPDとは、Borderline Personality Disorderの略で日本語では「境界性パーソナリティ障害」という。

僕が診断を受けた当時は「境界性人格障害」という名前だったが、「人格障害」という名前のイメージが誤解を受けやすいことから呼び名が「パーソナリティ障害」と変わった。

その他にもボーダー、ボダ、ボーダーラインなどと呼ばれている。

 

パーソナリティ障害にも種類があり、BPDを含め10種類ほどあり症例によって細分化されている。

 

BPDの特徴は「衝動的な行動や思考」「二極思考(白か黒かでしか考えられない)」「不安定な感情」「慢性的な虚無感」「対人関係の不安定さ」「自己破壊行動」などが挙げられる。

BPDになる原因は特定できていないが、 幼少期の環境が大きく関係していると考えられている。虐待や過干渉(過保護)、機能不全家族など。

BPDの症状の大きな特徴でもある「見捨てられ不安」というのはこういった幼少期の体験から(親に)見捨てられるかもしれないと強く感じすぎてしまう、というところから来ていると考えられている。

 

パーソナリティ障害は性格の延長線上にあるもので、薬によって治るものではなく、いつ治るか、どれぐらいの期間症状が出るのかも人によって違い、はっきりしたことはわかっていないが、統計上は30歳を超えると徐々に症状がやわらいでいくらしい。

これは単に時間の経過で治る、ということではなく、病気と一緒に生きていくことで病気との付き合い方を自分自身で学ぶことにあると僕は思っている。

子供が感情を制御できずに泣いてしまうように、BPDの症状が出たばかりの頃は自分でコントロールすることはできないが、歳を重ね色々なことを経験し、自分自身と向き合う時間を積み重ねていき、人間が成長するようにBPDも障害から性格の一部として変化していくのではないだろうか。

 

パーソナリティ障害について

 

パーソナリティー障害かどうかの判断は、自分自身で行えるものではない。

ネット上には自己診断ツールといったものがあるが、あれは傾向を知るだけであり病気を特定するものではない。

僕もその類のものを試してみたことがあるが、精神病に関して言えばほとんどが「80%以上で病気の可能性が高い」という風な結果が出る。

はっきり言ってそういうツールは「自称精神病」を増やすだけなので排除してほしいと思っている。

パーソナリティー障害はとくに、医者でも誤診が多く見極めるのが難しい病気だ。

「自称パーソナリティ障害」の人間が増えると、本当の患者に迷惑がかかる。

 

BPDの人が身近にいると知ったら

 

BPD(境界性パーソナリティ障害)は対人関係が不安定だ。

簡単に言うとついさっきまで大好きだった人間が一瞬にして大嫌いになる

感情の移り変わりが激しく、周りの人間を巻き込むことも多々あるため、「BPD被害者の会」というものも存在する。

家族の中に病人がいると一緒に暮らしている人間も疲弊するというのは他の病気でもあることだが、精神病に関してはとくにその傾向がある。

これは正しい病気に対する知識がない状態だととくに陥りやすい問題で、それが病気だとわからなければ適切に対処することもできない。

知識があったとしても、割り切って接することはなかなか難しいだろう。

全ての人間がBPDについて正しい知識を持つことは不可能だが、関係する人がなるべくこういった障害について知って、まず自分自身を守り、それから障害を持っている相手を守ってあげてほしいと思う。

 

僕が病院に行くまでの話

 

病院に行くきっかけは高校の担任の先生だった。当時僕は自傷行為がひどく、毎日手首や腕、時には胸なども傷つけていた。

症状が出始めたのは高校生になってから数か月した頃だったと思う。

毎日が絶望の日々で生きているのが辛く、死ねたら楽なのにと考えていた。

それまでとは同じ世界に生きている気がしなかった。

 

家に帰りたくないという気持ちから学校へは毎日行っていたが、だんだんと人前に顔を出すのも辛くなり、保健室登校のような状態だった。

 

通っていたのは進学校で入学して間もなく進路についての面談が行われた。

そこで僕は担任の先生に「大学へは進学できない」と言った。

僕の親には多額の借金があり、とても大学へ行けるようなお金はないと思っていたためだ。

その面談がきっかけで、僕は担任の先生には自分のことを正直に話すようになった。

話して楽になるなら、と思っていたし先生も話を聞けば少しは変わるかもしれないという期待があったかもしれない。

しかし僕の症状は悪化する一方で、傷も深くなるばかりだった。

 

症状が悪化する原因の一つには「依存」があった。

担任の先生とは別にある教師へ精神的依存をしていたのだ。

話がややこしくなるので担任の先生はA先生、依存していた先生をB先生とする。

B先生は僕の傷についても知っていて、A先生が理性的なのとは逆でただただ僕のことを心配してくれる人だった。

家に帰りたくないから学校へ行くと言ったが、夏になる前にはB先生と離れているのが辛く、B先生に会うために学校へ行っていた。

ただ、会いたいという気持ちだけではおさまらず、だんだんと独占欲が生まれ、嫉妬や束縛することが増えていき、嫉妬からくる怒りを鎮めるために、またB先生に心配させ束縛するために自傷行為をするようになっていった。

 

僕はある意味B先生を洗脳していった。

「先生といると安心する」

「先生がいてくれたら死なない」

というような言葉で徐々にB先生は、自分がいないと僕が死んでしまうかもしれないという風に思うようになり、僕を守れるのは自分しかいない、という考え方になっていった。

B先生が少しでも他の生徒と仲良くしているのを見たら自傷行為、仕事に追われていて僕の相手をしてくれなくなったら自傷行為、僕が満足するぐらい一緒にいてくれたら自傷行為をやめる(実際はやめていなかったがしていないフリをして傷も見せなかった)という様に、とにかく一緒に居させるために自分自身を傷つけることを躊躇わなかった。

こうして文字で説明すると、なんて計算的でズルいんだ、と思うかもしれないが、この行動全てにはB先生への依存からくる怒りと見放されるかもしれないという恐怖からくるもので、全て衝動的な行動だ。

 

こうして僕とB先生は共依存関係になり、教師と生徒という関係から逸脱していった。

B先生はやがて仕事に支障をきたすようになり、僕たちの関係は一部の教師にバレてしまいA先生もそのことを知った。

 

僕の症状が良くならないということ、そしてB先生とのこともありA先生はもう学校内で解決できないと判断し、僕を病院に連れていくことを決めた。

最初は病院に行ってほしいという話をされたが僕は拒否し、A先生は数か月間悩んだ結果、自ら病院に連れて行くという選択をした。

「私が一緒に行くから、病院に行こう」と。

 

 

次は、初めての病院から高校卒業までの話を書きたいと思う。

 

 

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