
生きているのがたまに虚しくなる、どうも青海ゆうきです。
前回の話の続きを書いていく。
今回は初めての病院から高校卒業まで書く予定だったが長くなってしまったので高校2年生までの話をすることにした。
BPD(境界性パーソナリティ障害)についてと前回のお話はこちらから
→僕とBPD~パーソナリティー障害と共に生きる~発症編
病院に行くという決断
高校一年の冬、12月。
僕とA先生は一緒に病院へ向かった。
A先生は病院について色々調べてくれたらしく、近くの病院ではなく電車で50分ほどかかる隣県の病院に僕を連れていくことにしたらしい。
僕は病院に行くことに乗り気ではなかった。
というのもそれまでに、県の教育相談施設へ行ったり、スクールカウンセラーと話したり色々としてきたのだが、僕にとってそれはただの無駄な時間であって何一つ収穫がなかったからだ。
病院に行っても何も変わらないという諦念しかなかったが、行かないと駄々をこねていてもA先生を困らせるだけだと思い行くことにしたのだ。
というのは少し強がった言い方かもしれない。
「私が一緒に行くから、病院に行こう」
とA先生に涙を浮かべながら真剣に言われた時、僕の心の中は罪悪感でいっぱいになった。
僕は、たしかに誰かに心配してもらいたかったけど、誰かを傷つける気などなかった。
B先生に対してもそうだった。
最初はただ自分の傍にいてほしい、束縛したい、愛されたい、という気持ちしかなかったが、共依存関係になり、B先生が教師としての生活に支障をきたしていると知った時から、だんだんと罪悪感が生まれていき、自分の中にある二つの感情に苦しめられることになった。
それは、自分のせいで他人を苦しめたくないという理性と、自分以外は愛してほしくないという本能だ。
二つのかけ離れた気持ちが同時にあることで僕は自分自身の感情に悩まされ苦しめられていた。
病院に行くことで何かが解決するとは思っていなかったが、この罪悪感から少しでも逃れるためには、A先生に従って病院に行くという選択肢しかなかったのかもしれない。
初めての診察
病院に着くと診察の前に待合い室で問診票を書くことになった。
その問診票とは別に、チェックシートの紙も受け取った。
チェックシートはかなりの数の質問があり、それに、はい、いいえ、わからない、のどれかにマークするというものだ。
それを全て書き終え、診察室へ案内されるとそこにはこれから長く世話になるO医師が座っていた。
A先生は最初席を外すように言われ、僕とO医師だけで最初の診察が始まった。
そこでの細かいやりとりは忘れてしまったが、待合い室で書いたチェックシートは鬱病であるかどうかのチェックシートであったらしく、こちらへ向けられたパソコンのモニターには折れ線グラフがあり、赤い線より上を行っている部分が多いだけ鬱病の可能性が高い、というような説明だったと思う。
ところどころ赤線より下の部分があったが、ほとんどが赤の線より上をいっていた。
「僕は鬱病なんですか?」
と訊ねるとO医師は
「可能性はあるけれど断定はできないわね」
と返答した。
このあと30分ぐらい、僕がおかしくなり始めた中学3年の末から今までのことをO医師に説明した。
家庭のこと、学校のこと、それから自傷行為について。
だけど僕はB先生のことについては話さなかった。
自分のことや自分の周りで起こったことを話すのは簡単だったが、自分の心情や本音を初対面の人間に話すことはできなかったのだ。
最初の診察はそれだけで、何か薬が処方されるわけでもなく二週間後にまた来るように言われた。
そのあと診察室にA先生も入り三人で少しだけ話したが、すぐにその時間は終わり、僕とA先生は帰路につくこととなった。
帰りの電車、A先生は少し不安そうだった。
多分、病院に行けば何か具体的な対処法や治療法を得られると期待していたからだと思う。
「病院にはきちんと行くからもうついてこなくても大丈夫だよ」
と僕はA先生を安心させたくて言った。
その後の診察
それから二週間置きに病院へ行った。
数回の診察の後、O医師の診察とは別に心理療法士とのカウンセリングもすることになった。
病院に行く、と決めた時から僕はB先生と離れるべきだと考えるようになっていた。
それは先に書いたように、他人を苦しめているという罪悪感からだ。
B先生のことを本当に愛しているなら、これ以上傷つけてはいけない。
そんな思いもあった。
会いたいという気持ちを抑え、なるべく会わないようにしようと試みた。
しかしそれはあまりにも残酷なことだった。
僕はB先生といることによって、また疑似的にでも愛されることによって心を保っていた。
会えない時間が増えれば増えるほど、僕の心に見えない棘が刺さり、その棘は心をえぐり、息をするのも苦しくなるほどだった。
依存している人から離れようとするということは客観的に見れば進歩だったかもしれない。
自立しようとする若者のようだったかもしれない。
しかしそんなことは全くなく、僕は確実に破滅へと向かっていた。
何故なら僕は、自分のためにではなく、他人のためにそうしているからだった。
高校に入学した時は悲しみと怒りで衝動的になることも多かったが、この頃は抑鬱気味で、それまでとは違う「死にたい」気持ちでいっぱいだった。
それまでの「死にたい」は世界に対する拒絶だったがこの時の「死にたい」は自分に対する絶望だった。
自分さえいなければ、誰も傷つけずにすんだのに。
自分が死ねば、全部元に戻る。
そして自分もこの苦しみから解放される。
こんなことばかり考えていた。
O医師もそんな僕の変化に気づいたのか、薬の処方を開始した。
しかし処方されたのは抗うつ剤ではなく抗精神病薬(いわゆる精神安定剤)だった。
O医師は薬を処方しても僕に病名を告げることはなかった。
僕も自分で調べたりしているうちに、鬱病とは違うのではないかと考えていた。
抗うつ剤を処方されない、ということは鬱病ではない、ということなのかもしれない。
だったら僕は一体何の病気なのか。
こんな疑問を抱いていたが、その時の僕にはそれ以上深く考えることができなかった。
薬がどういう風に効いているのかよくわからなかったが、とにかく眠くて学校に行っても寝てばかりいた。
と言っても意識がなくなるほどの睡眠をとっていたわけではなく、眠たいという状態がずっと続くような感覚で、現実世界から一歩引いたところでぼーっとして、まるで夢の中にいるかのようだった。
このまま意識が遠のいていって、いつの間にか死んでいたらいいのにと思ったが睡魔は徐々に消えていった。
悪魔の追い打ち
高校二年生になる前、もうすぐ春休みという時に、僕は学年主任の先生に呼ばれた。
「あなたに言っておくことがある。次の学年では僕があなたの担任になる。それと、B先生は違う学年にうつってもらうことにした」
B先生は本来なら僕と同じ2年の担当になるはずだった。
何故わざわざ僕を呼んでそんなことを言うのか、理由は明白だった。
僕からB先生を少しでも遠ざけると知らせるためだ。
同じ学年であれば、担任でなくても授業で会うことになる。
前にB先生は、授業で僕のクラスに行ったが僕がいないことに気づいて授業を自習にし、学校中を探し回ったことがあった。(僕は体調がすぐれず保健室で寝ていた)
こういうことが起こる可能性をなくしておかなければならない、というのは学校として当然の処置だと思う。
だけどこのことは僕にさらなる罪悪感を与えた。
2年生になった僕は全てから見離されているような気持ちだった。
4月の終わり、もう全て終わらせようと思った。
放課後のもう生徒がほとんどいなくなった頃、校舎の最上階のベランダの柵を僕はまたいだ。